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村の歴史

縄文時代

縄文時代は今から約1万3千年前から始まり、約2千年前まで約1万1千年にわたる期間だといわれている。北相木村から発見されている土器は、栃原遺跡出土のものが縄文早期の土器で最も古く、灰中の炭化物の含む放射能の測定によると今から8千6百50年前頃という時代が判明した。

北相木人栃原遺跡

栃原遺跡は、今から約80万年前の洪積世前期末に八ヶ岳火山が噴出した泥流が固まった集塊岩のかげを、相木川の流れがけずってできたほら穴の住居跡である。
北相木人は今から約1万年前からここに住んでいた。発掘された11体の人骨のうち、北相木人第1号の人骨の頭部はほぼ完全な形で残っていた。栃原遺跡では多量の灰の中にあったため骨が腐らず保存されていたので顔をそなえている人骨としては日本で1番古いものである。

弥生時代

今から2千年程前の弥生時代の中期には、長野県から関東地方一帯、更に佐渡や奥羽地方の仙台市のあたりまで米が作られるようになっていた。稲が伝わってくると平地で、湿気が多く、簡単に田のできる佐久平が稲作の適地なので、北相木等の山間部に住んでいた人達は佐久平へ移住した。しかし、稲作のできる佐久平に移住してもすぐに田ができたわけではなく、何年かは米を作りながら狩りをしていた。農業の暇を見つけては相木等に来て狩りをしたり木の実を取った人が使ったものらしい弥生式土器が京の岩から発見された。

江戸時代

寛永6年、徳川忠長領に属する佐久郡では検地が施行された。この検地は本格的な総検地でこれによって今までの概算的なものから石高制の実質的確立とそれを基礎としての農民支配の徹底と基本的な村高の成立はこの検地によって実現されたと思われる。

秩父事件

秩父事件は秩父騒動ともいわれる。明治17年11月1日埼玉県秩父地方に蜂起した地域住民中心の世直し騒動であった。自由民権運動とも絡み合い、特異な激化形態を展開したものとして注目される。参加した民衆は8千とも1万ともいわれ、秩父郡内の公権を3日間も停止させた。秩父での蜂起の原因は、金融逼迫に加えて繭価・生糸価の急落などによる経済的破局などにあった。高利貸に借金し急場をしのいできた極貧、細民層のゆきずまりは借金返済延期の哀訴となった。ところが当然の拒絶にあった。彼等は「負債据置年賦償却説論ノ義」の嘆願書を郡役所へ提出哀訴したが却下された。役人も警察官も彼等の味方ではなかった。そこで、坂本宗作・落合虎市らや、自由党の井上伝蔵らによって、圧制官吏を敵として、世直しのため困民の先頭に立った。
秩父との交流は、村内を通る街道によって頻繁な交易が江戸時代以前からあった。事件に参加した何人かは、事件の通路となった十石峠を越え、街道を物資輸送してきた。北相木の若者達に秩父方面に友人ができ、武川商人が村の民家の軒さきに腰をおろし種物や雑貨を商うのは何も珍しいことではなかった。秩父事件について連絡がされ、参加要請が党員にもたらされたのは事件前の夏頃からであった。

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