栃原岩陰遺跡のお話その4 ついてる土器とついてた豆(中編)

2020年6月9日

 大分時間が経ってしまいましたが、前回の続きです。前回は、土器に付着していた炭化物で年代が割り出せ、尚且つ豆の痕が残っていた土器を紹介しました。ではなぜ、それが豆だと分かったのでしょう。
 土器の表面や断面には、時折数㎜大の穴が空いています。これを圧痕と呼びます。以前は漠然と、小さな石か何かが抜け落ちたものと思われていましたが、ここにシリコンゴムを流し込み、取り出したレプリカを顕微鏡などで観察すると、それが小さな虫や植物の種である場合があると分かってきました。これは「圧痕レプリカ法」とも呼ばれ、縄文時代の研究において、新しい数々の発見を生んでいます。
 中でも注目されたのが、アズキやダイズの仲間の存在でした。土器の圧痕には、相当数の豆が含まれていたのです。これにより、縄文時代におそらくは食料として豆が利用されていたこと、さらに一部の地域では、発見される豆(種子)の大型化が起こっており、これは野生種から栽培種への転換を示す可能性も指摘されています。つまり、縄文時代はただ狩りをし、木の実を集め、魚や貝を捕っていたのみでなく、植物の栽培もしていたのではないかという、縄文時代のイメージを大きく変える意見も出されています。

 さて、もう一度、前回紹介した栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」を見てみると、撚糸文が内面にも外面にも施文され、地表下-440㎝付近で出土、更に年代測定ではおよそ11000年前と、縄文時代早期初め頃のものとして間違いがなさそうです。圧痕として残されていた豆は長径4.5㎜と、今食卓で見るものと比べるとはるかに小型ですが、顕微鏡によるレプリカの観察からも、ダイズの仲間(ダイズ属)と同定されました。

圧痕レプリカ
前回紹介した土器に残された、圧痕のレプリカ。上の楕円形の部分が、ダイズ属種子と同定されている(写真は中山誠二氏によるレプリカ)。

 つまり、11000年前に栃原に住んだ人が、豆を食べていたかもしれないのです。さらに栃原岩陰遺跡からは、この他にも豆の発見がありました。これらは何を意味しているのでしょうか?果たして本当に、豆を食べていたのでしょうか?
 また長くなってしまったので、今回はここまで。次回こそ、栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」オールスターズで、上の疑問に迫りたいと思います。

 

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