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新聞記事に

 4月22日の信濃毎日新聞「しなの歴史再現」にて、当館学芸員が(と言っても1人、つまり自分ですが)、栃原岩陰遺跡のことを書きました。
 いくつかお問い合わせもありましたが、現在は当館も休館中です。再開の後は、ぜひ栃原岩陰遺跡の遺物をご覧にお出で下さい。

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栃原岩陰遺跡のお話その2 小さなスクレイパー

 前回は骨角器の例を紹介しました。栃原岩陰遺跡では、骨角器を含めた様々な有機質の遺物が出土していますが、実はこのような例は、海浜部の貝塚などでは多いものの、内陸部の遺跡では珍しいものです。土が酸性である通常の遺跡では、骨などは分解されてしまい、現代までは残らないのがほとんど。その結果、縄文時代といえば、土器や石器のみが残された遺跡が多いのです。そういった意味でも、栃原岩陰遺跡は貴重な遺跡と言えます。

 ではありますが、2回目の今日は、考古学の王道の一つとも言える石器を取り上げてみました。
 一口に石器と言っても様々な道具を含みますが、今回取り上げたのは、研究者が「拇指状掻器(サム・スクレイパー)」と呼ぶ小さな石器です。その名の通り、人の親指の先端のような形をしています。厚みがある石材を用いて、急角度の加工で平面的には丸みをおびています。大きさにはばらつきもありますが、多くが2㎝程度。栃原岩陰遺跡では約70点以上出土し、そのほとんどが黒曜石製です。
 個人的には、初めて本格的に取り組んだ栃原岩陰遺跡の遺物であり、数年後には諏訪湖底の曽根遺跡でも同様の石器を分析する機会があったりと、思い出深い石器でもあります。

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 さてこれらの石器、金属顕微鏡を使った観察によれば、丸く加工した部分を刃にして、皮なめしなどに使っていたようです。また面白いのは、この石器が出土するのは、栃原岩陰遺跡でも古い時期であるが縄文時代早期前葉の表裏縄文土器期(およそ11,000から10,700年前)の層に集中していることです。栃原岩陰遺跡の場合は、遺物に出土した深さが記録されているものが多いのですが、この石器については、ほとんどが深さ400~560㎝の層からしています。そして、同じ縄文時代でも、その後はほとんんど姿を見せません。
 もし皮なめしの用途が正しければ、この時期は特に皮革製品を多く使う生活だったのか、あるいはその後、皮なめしに使う道具が変わったのか。もし前者なら、動物骨の出土量や種類、他の加工具との関係、さらには気候変動との関わり(寒い時期には皮革製品を多く使う傾向があるとも言われる)など、様々な検討課題が見えてきます。
 小さな石器ですが、多くの事を考えさせてくれる石器でもあります。

2020年4月10日
北相木村考古博物館学芸員 藤森英二

栃原岩陰遺跡マガジンVol.2PDF版公開

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『栃原岩陰遺跡マガジン』Vo2.1 PDF版
村のホームページからご覧いただけるようになりました。
弥生時代の栃原岩陰遺跡とは?
縄文ブームとは?
これを機会にどうぞ、ご覧ください。

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桜の季節ですが、引き続き休館です。

山深い当村も、ようやく春の訪れです。
博物館脇の桜も満開をむかえていますが、お知らせしている通り、
当館も新型コロナウイルス拡散防止のため、当面の間休館となっております。
願わくば、来年の春、皆様にこの桜をご覧いただけますことを。

当館では、ご自宅でも楽しめるコンテンツを少しづつ提供したいと思います。

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栃原岩陰遺跡のお話その1 謎の骨角器

 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、当館も、当面の間休館となっております。思えば昨年10月の台風19号の災害によりイベントが中止となって以来、ようやくお客様も戻ってきた矢先でした。

 さて、当館の展示収蔵品のほとんどを占める栃原岩陰遺跡については、昨年冬に『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 第1次~第15次調査(1965~1978)』を刊行しましたが、その中からは、新しい栃原岩陰遺跡像が少しづつ見えてきています。出来ることなら、館にお越し頂くことで、それらをお伝えしていきたかったのですが、物事なかなか思うようにはいきませんね。
 そこで、先進的な博物館のようなバーチャルな体験には敵わないものの、このブログを用いて、主に栃原岩陰遺跡についてのアップデートされた情報を、少しずつ提供していければと思います。
 

 第1回目の今日は、栃原岩陰遺跡出土の謎の骨角器2点を取り上げてみましょう。

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 栃原岩陰遺跡では、研磨などの明かな加工のある動物骨(これらを骨角器と呼びます)が100点近く出土していますが、この中には用途不明のものがかなり含まれています。今回取り上げたのは、その中の2点で、写真左のものは「栃原岩陰部」Ⅰ~Ⅳ区、地表面からー460㎝のレベルで出土、左側は同区出土でレベルは不明です。区画やレベルの意味は、次回以降追々説明していきますが、少なくとも右側のものは、縄文時代早期はじめ、約11000~10700年前の物と思われます(なぜそんな年代が分かるのかは、いずれ、また)。

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 左側のもの(185-13)で長さ約8.6㎝、厚さ0.36㎝、幅0.56㎝、おそらく哺乳類(ニホンジカやイノシシの四肢骨と思われる)の骨片を磨き、片方の先端はやや鋭利に、もう片方はやや丸く仕上げ、円形の孔を開けています。さらに注目すべき点は、平坦な面と側面にギザギザあるいは斜めの直線模様を彫っていることでしょう。
 しかし上に書いたように、これらが何に使われていた物なのかも、もちろんギザギザ模様の意味も解明されていません。同じような形状で模様が無い骨角器もありますが(それらもいつかは紹介出来ればと思います)、それらとの関係も分かりません。
「なんだ、分からないことばかりじゃないか」と言われると、確かにその通りです。しかし、1万年以上も前の縄文人の残した物が、現代の私たちには分からない物であることはむしろ当たり前で、何でも知っているような考古学者に出会ったら、ぜひ用心して下さい。
 それはさておき、今後、このような例が他の遺跡でどのくらいあるか、また製作時や使用時(もし実用品であればですが)の傷などが残っているか、あるいは同じ時期の他の遺物との関係からその目的が絞り込めるかどうかなど、様々な研究を重ね、真相に迫れればと思います。
 私個人としては、模様の付いた骨角器は極少数であることを重視し、孔に紐を通したペンダントなどのアクセサリー類ではなかったかと考えていますが、今後の研究で、違う見方をするかもしれません。1万前の栃原岩陰遺跡は、まだまだ謎だらけです。
 では、次回以降も、栃原岩陰遺跡の遺物を中心に、みなさんを縄文世界に案内したいと思います。

2020年4月10日
北相木村考古博物館学芸員 藤森英二

 

新型コロナウイルス感染症の拡大防止のための臨時休館の延長について

4月5日から当面の間、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、
臨時休館とさせて頂きます。

ご理解頂きますよう、よろしくお願い申し上げます。

北相木村考古博物館
北相木村教育委員会