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北相木村発行の遺跡発掘調査報告書へのアクセスについて

 世界的なコロナ禍のなかで、各地の博物館や図書館に立ち入れない状況が続いています。その意味でも、考古学を学ぶ、研究する上では必要不可欠な遺跡の発掘調査報告書について、インターネット上での利用を図るのも、これまで以上に急務となっております。
 北相木村教育委員会では、これまでに5冊の発掘調査報告書を発行しておりますが、このうち4冊については、すでに奈良文化財研究所の運営する全国遺跡報告総覧に掲載済みです。
 以下、専門用語が多くて読みづらいかもしれませんが、それぞれの概要を示しました。いずれもわずかなページ数の報告書ですが、ご利用頂ければ幸いです。

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『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 -昭和58年度-』
 1984年発行。国史跡栃原岩陰遺跡は複数の岩陰からなりますが、1983年には、これまで発掘を行っていた「栃原岩陰部」よりも東側の調査をしています。
 わずかな面積のトレンチ調査ですが、時代的には縄文早期、前期、中期、中世の遺物が出土しています。なかでも縄文早期後半の沈線文条痕文系土器が目立ちます。その他骨角器、獣骨、植物遺体も報告されています。

『坂上遺跡』
 2000年発行。北相木村村内では、おそらく一二を競う面積の遺跡と思われますが、調査は村医師住宅建設に伴う小規模なもので、調査面積は約60㎡。しかし縄文早期、前期、中期、後期、平安時代の遺構遺物が確認されました。
 特に遺物が多いのが縄文中期で、中でも前半期の土器が多くみられ、勝坂・井戸尻系土器に加え、関東の阿玉台式土器や、南佐久独自の形態も見出せます。また縄文後期では、堀之内式の文様の付いた土器の内側に、文様の無い土器が入れ子状に埋められていた、いわゆる埋甕が確認できました。
 その他、中期後葉の連弧文土器や、後期前葉の南三十稲葉式土器の破片など、他地域の土器も見られます。
 平安時代では、墨で何かが書かれた墨書土器が出土しています。

『国史跡 栃原岩陰遺跡・天狗岩岩陰 -保存整備事業に伴う発掘調査報告書-』
 2002年発行。1983年の調査よりも東側、広い開口部をもつ「天狗岩岩陰部」について、部分的に試掘調査した際の報告書です。それぞれわずかづつですが、縄文前期、中期、弥生前期、中期、古代、中世、江戸期の遺物が出土。「天狗岩岩陰部」でも、良好な遺物包含層の存在が確認されています。

『木次原遺跡』
 
2003年発行。村の東部、標高約1200mに位置する遺跡で、1987年に作業小屋を建てた際、遺構の断面が露出していました。そこを新たに調査したところ、奈良平安時代の竪穴住居址であると確認できました。
 さらに周辺を調査し、縄文時代前期前葉の竪穴住居址を検出しています。ここでは、大小850点以上のチャートが出土し、おそらく周辺で得たこの石を用いて、矢尻などの石器を作っていたと予想されています。黒曜石の入手や利用とは異なる生活の痕跡かもしれません。

 尚、昨年発行した『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 第1次~第15次調査(1965~1978)』についても、現在、インターネット上で閲覧を可能とする準備を進めています。また、私の関わった近隣市町村のものについても、関係機関のご理解ご協力を得ながら、進めて行ければと思っております。
 研究者、学生の皆さん、そして考古学に興味のある多くの方々に、広く利用されるかたちを目指して。

新聞記事に

 4月22日の信濃毎日新聞「しなの歴史再現」にて、当館学芸員が(と言っても1人、つまり自分ですが)、栃原岩陰遺跡のことを書きました。
 いくつかお問い合わせもありましたが、現在は当館も休館中です。再開の後は、ぜひ栃原岩陰遺跡の遺物をご覧にお出で下さい。

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栃原岩陰遺跡のお話その2 小さなスクレイパー

 前回は骨角器の例を紹介しました。栃原岩陰遺跡では、骨角器を含めた様々な有機質の遺物が出土していますが、実はこのような例は、海浜部の貝塚などでは多いものの、内陸部の遺跡では珍しいものです。土が酸性である通常の遺跡では、骨などは分解されてしまい、現代までは残らないのがほとんど。その結果、縄文時代といえば、土器や石器のみが残された遺跡が多いのです。そういった意味でも、栃原岩陰遺跡は貴重な遺跡と言えます。

 ではありますが、2回目の今日は、考古学の王道の一つとも言える石器を取り上げてみました。
 一口に石器と言っても様々な道具を含みますが、今回取り上げたのは、研究者が「拇指状掻器(サム・スクレイパー)」と呼ぶ小さな石器です。その名の通り、人の親指の先端のような形をしています。厚みがある石材を用いて、急角度の加工で平面的には丸みをおびています。大きさにはばらつきもありますが、多くが2㎝程度。栃原岩陰遺跡では約70点以上出土し、そのほとんどが黒曜石製です。
 個人的には、初めて本格的に取り組んだ栃原岩陰遺跡の遺物であり、数年後には諏訪湖底の曽根遺跡でも同様の石器を分析する機会があったりと、思い出深い石器でもあります。

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 さてこれらの石器、金属顕微鏡を使った観察によれば、丸く加工した部分を刃にして、皮なめしなどに使っていたようです。また面白いのは、この石器が出土するのは、栃原岩陰遺跡でも古い時期であるが縄文時代早期前葉の表裏縄文土器期(およそ11,000から10,700年前)の層に集中していることです。栃原岩陰遺跡の場合は、遺物に出土した深さが記録されているものが多いのですが、この石器については、ほとんどが深さ400~560㎝の層からしています。そして、同じ縄文時代でも、その後はほとんんど姿を見せません。
 もし皮なめしの用途が正しければ、この時期は特に皮革製品を多く使う生活だったのか、あるいはその後、皮なめしに使う道具が変わったのか。もし前者なら、動物骨の出土量や種類、他の加工具との関係、さらには気候変動との関わり(寒い時期には皮革製品を多く使う傾向があるとも言われる)など、様々な検討課題が見えてきます。
 小さな石器ですが、多くの事を考えさせてくれる石器でもあります。

2020年4月10日
北相木村考古博物館学芸員 藤森英二