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栃原岩陰遺跡のお話その3 ついてる土器とついてた豆(前編)

 ここまで、骨角器、石器を紹介してきましたが、次はやはり土器でしょうか? しかし、栃原岩陰遺跡出土の土器は、量も膨大で、時期にも幅があります。そこで今回は、土器そのものと言うよりも、研究の過程を振り返りつつ、どんなことが分かってきたのか、そんな例を紹介します。

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 写真の土器片は、「栃原岩陰部」のⅡ-1区、ー440㎝から出土したもの。上下の幅7.5㎝とそれほど大きな破片ではありませんが、実はこれが、幸運に恵まれた「ついてる土器」だったのです。

 考古学では、土器の模様や胎土(材料となった素地土)、作り方の技法が重要視されます。それが「土器型式」というまとまりになり、年代や地域を示す指標になるからです。その見方では、この土器は表と裏(考古学用語では外面と内面)に撚糸文(細い棒にごく細い縄を巻き付け、それを転がして付けた模様)が施文された「表裏撚糸文土器」の口縁(土器の口の部分)を含んだ破片で、ここから縄文時代早期の土器と判断出来ます。
 しかし、この様な特徴だけでは細かい時期が不明確で、2010年に(株)加速器研究所に依頼し、放射性炭素年代測定を行いました。この土器の内面には、当時のお焦げ(炭化物)が付着していたことで、この分析が可能となったのです。放射性炭素年代測定についてはまた別の機会にしますが、最近では精度も上がり、細かな実年代(今からおよそ何年前のものか)が、ある程度分かるようになってきています。
 これによると、この土器片は今からおよそ11,000年前(11105 −10745 cal BP 95.4%)のものである可能性が高いとされました。これは縄文時代早期のはじめ頃と言えそうで、その時間的位置付けもはっきりしてきました。この様に、たまたま残っていたお焦げによって年代が割り出せるのは、全体の数パーセントにも満たない、幸運な土器なのです。
 そしてさらに、この土器については興味深い発見が続きます。実は2010年の分析の際にも、外面に楕円形の穴(写真左上の黒い部分)があることが指摘されていたのですが、その後2016年からの明治大学黒輝石研究センターなどによる調査で、それがダイズ属の種子、つまり豆の痕だと判明したのです。
 なぜそのような事が分かったのか、そしてそれはどのような意味を持つのか。同じく栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」の例と共に、次回で説明したいと思います。

北相木村発行の遺跡発掘調査報告書へのアクセスについて

 世界的なコロナ禍のなかで、各地の博物館や図書館に立ち入れない状況が続いています。その意味でも、考古学を学ぶ、研究する上では必要不可欠な遺跡の発掘調査報告書について、インターネット上での利用を図るのも、これまで以上に急務となっております。
 北相木村教育委員会では、これまでに5冊の発掘調査報告書を発行しておりますが、このうち4冊については、すでに奈良文化財研究所の運営する全国遺跡報告総覧に掲載済みです。
 以下、専門用語が多くて読みづらいかもしれませんが、それぞれの概要を示しました。いずれもわずかなページ数の報告書ですが、ご利用頂ければ幸いです。

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『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 -昭和58年度-』
 1984年発行。国史跡栃原岩陰遺跡は複数の岩陰からなりますが、1983年には、これまで発掘を行っていた「栃原岩陰部」よりも東側の調査をしています。
 わずかな面積のトレンチ調査ですが、時代的には縄文早期、前期、中期、中世の遺物が出土しています。なかでも縄文早期後半の沈線文条痕文系土器が目立ちます。その他骨角器、獣骨、植物遺体も報告されています。

『坂上遺跡』
 2000年発行。北相木村村内では、おそらく一二を競う面積の遺跡と思われますが、調査は村医師住宅建設に伴う小規模なもので、調査面積は約60㎡。しかし縄文早期、前期、中期、後期、平安時代の遺構遺物が確認されました。
 特に遺物が多いのが縄文中期で、中でも前半期の土器が多くみられ、勝坂・井戸尻系土器に加え、関東の阿玉台式土器や、南佐久独自の形態も見出せます。また縄文後期では、堀之内式の文様の付いた土器の内側に、文様の無い土器が入れ子状に埋められていた、いわゆる埋甕が確認できました。
 その他、中期後葉の連弧文土器や、後期前葉の南三十稲葉式土器の破片など、他地域の土器も見られます。
 平安時代では、墨で何かが書かれた墨書土器が出土しています。

『国史跡 栃原岩陰遺跡・天狗岩岩陰 -保存整備事業に伴う発掘調査報告書-』
 2002年発行。1983年の調査よりも東側、広い開口部をもつ「天狗岩岩陰部」について、部分的に試掘調査した際の報告書です。それぞれわずかづつですが、縄文前期、中期、弥生前期、中期、古代、中世、江戸期の遺物が出土。「天狗岩岩陰部」でも、良好な遺物包含層の存在が確認されています。

『木次原遺跡』
 
2003年発行。村の東部、標高約1200mに位置する遺跡で、1987年に作業小屋を建てた際、遺構の断面が露出していました。そこを新たに調査したところ、奈良平安時代の竪穴住居址であると確認できました。
 さらに周辺を調査し、縄文時代前期前葉の竪穴住居址を検出しています。ここでは、大小850点以上のチャートが出土し、おそらく周辺で得たこの石を用いて、矢尻などの石器を作っていたと予想されています。黒曜石の入手や利用とは異なる生活の痕跡かもしれません。

 尚、昨年発行した『栃原岩陰遺跡発掘調査報告書 第1次~第15次調査(1965~1978)』についても、現在、インターネット上で閲覧を可能とする準備を進めています。また、私の関わった近隣市町村のものについても、関係機関のご理解ご協力を得ながら、進めて行ければと思っております。
 研究者、学生の皆さん、そして考古学に興味のある多くの方々に、広く利用されるかたちを目指して。

新聞記事に

 4月22日の信濃毎日新聞「しなの歴史再現」にて、当館学芸員が(と言っても1人、つまり自分ですが)、栃原岩陰遺跡のことを書きました。
 いくつかお問い合わせもありましたが、現在は当館も休館中です。再開の後は、ぜひ栃原岩陰遺跡の遺物をご覧にお出で下さい。

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