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栃原岩陰遺跡のお話その5 ついてる土器とついてた豆(後編)

 間が空いてしまってすみません。前回の続きです。
 前回までに、栃原岩陰遺跡下部、地表下-440㎝出土の約11000~10700年前の土器に、豆(ダイズ属)の種子の跡があったことを書きました。今回は、同じ下部出土のその他の豆圧痕の例、さらに同じ下部出土の炭化したアズキの種子が、やはり年代測定で古い値を示したこと、そしてその意味するところを書きたいと思います。 

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 まず写真の土器片が、豆の圧痕が残されていたものです。右側から-440㎝、-440~−450㎝、-400㎝付近(ただし同一個体の土器片が-450㎝付近から複数有り)出土で、それぞれ豆、ここではアズキ亜属の種子圧痕が確認されています。
 そして-465~−495㎝で出土した炭化した小さな種子が、昨年の報告書刊行作業の中で、同じくアズキ亜属と同定されました。さらに、その後の放射性年代測定によって、これがおよそ10800~10600年前(10758-10586 cal BC 95.4%)の種子とされたのです。
 つまり栃原岩陰遺跡を利用した縄文早期はじめ(1万数百年前)の人々も、小さな豆を食事のメニューに加えていたと考えて良いのではないでしょうか。
 ただし、これらはいずれも小型のもので、現代の私たちが慣れ親しんでいる大豆や小豆よりもずっと小さいものです。実はこれらの豆類、縄文時代中期(およそ5000年前)にはかなり大型化したものが存在しており、この頃の人々が、簡易的な栽培を行っていた可能性も指摘されています。当然、大きくした豆を、食料として用いていたのでしょう。
 栃原岩陰遺跡で検出された小型の豆類は、おそらく栽培される以前の、野生のツルマメ、ヤブツルアズキ(それぞれ大豆や小豆の原種、野生種)と考えられます。 肉や魚、堅果類(ドングリなど)の利用はこれまでも想定されていますが、栃原岩陰遺跡の縄文早期はじめの人々も、豆の味を知っていたのだと思います。これは現在のところ、国内でもかなり古い事例であり、学術的にも貴重なものです。
 小さな土器片に残された、小さな小さな穴、ですが、実は重要なことが分かるという例でした。

 このように、研究の進展により、同じ資料からも新たな発見が生まれます。だからこそ、博物館は膨大な資料を、いつまでも保存管理していく必要があるのです。

栃原岩陰遺跡発掘調査報告書刊行記念「栃原岩陰遺跡フェスティバル2020 」開催予定!(ひょっとしてリモート?)

昨年は台風災害で幻となってしまった栃原岩陰遺跡フェスティバル。通称「栃原 Rock フェス」
コロナ禍の中、大変難しい状況ではありますが、今年こそは、
なにかやります!
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栃原岩陰遺跡のお話その4 ついてる土器とついてた豆(中編)

 大分時間が経ってしまいましたが、前回の続きです。前回は、土器に付着していた炭化物で年代が割り出せ、尚且つ豆の痕が残っていた土器を紹介しました。ではなぜ、それが豆だと分かったのでしょう。
 土器の表面や断面には、時折数㎜大の穴が空いています。これを圧痕と呼びます。以前は漠然と、小さな石か何かが抜け落ちたものと思われていましたが、ここにシリコンゴムを流し込み、取り出したレプリカを顕微鏡などで観察すると、それが小さな虫や植物の種である場合があると分かってきました。これは「圧痕レプリカ法」とも呼ばれ、縄文時代の研究において、新しい数々の発見を生んでいます。
 中でも注目されたのが、アズキやダイズの仲間の存在でした。土器の圧痕には、相当数の豆が含まれていたのです。これにより、縄文時代におそらくは食料として豆が利用されていたこと、さらに一部の地域では、発見される豆(種子)の大型化が起こっており、これは野生種から栽培種への転換を示す可能性も指摘されています。つまり、縄文時代はただ狩りをし、木の実を集め、魚や貝を捕っていたのみでなく、植物の栽培もしていたのではないかという、縄文時代のイメージを大きく変える意見も出されています。

 さて、もう一度、前回紹介した栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」を見てみると、撚糸文が内面にも外面にも施文され、地表下-440㎝付近で出土、更に年代測定ではおよそ11000年前と、縄文時代早期初め頃のものとして間違いがなさそうです。圧痕として残されていた豆は長径4.5㎜と、今食卓で見るものと比べるとはるかに小型ですが、顕微鏡によるレプリカの観察からも、ダイズの仲間(ダイズ属)と同定されました。

圧痕レプリカ
前回紹介した土器に残された、圧痕のレプリカ。上の楕円形の部分が、ダイズ属種子と同定されている(写真は中山誠二氏によるレプリカ)。

 つまり、11000年前に栃原に住んだ人が、豆を食べていたかもしれないのです。さらに栃原岩陰遺跡からは、この他にも豆の発見がありました。これらは何を意味しているのでしょうか?果たして本当に、豆を食べていたのでしょうか?
 また長くなってしまったので、今回はここまで。次回こそ、栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」オールスターズで、上の疑問に迫りたいと思います。