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栃原岩陰遺跡のお話その4 ついてる土器とついてた豆(中編)

 大分時間が経ってしまいましたが、前回の続きです。前回は、土器に付着していた炭化物で年代が割り出せ、尚且つ豆の痕が残っていた土器を紹介しました。ではなぜ、それが豆だと分かったのでしょう。
 土器の表面や断面には、時折数㎜大の穴が空いています。これを圧痕と呼びます。以前は漠然と、小さな石か何かが抜け落ちたものと思われていましたが、ここにシリコンゴムを流し込み、取り出したレプリカを顕微鏡などで観察すると、それが小さな虫や植物の種である場合があると分かってきました。これは「圧痕レプリカ法」とも呼ばれ、縄文時代の研究において、新しい数々の発見を生んでいます。
 中でも注目されたのが、アズキやダイズの仲間の存在でした。土器の圧痕には、相当数の豆が含まれていたのです。これにより、縄文時代におそらくは食料として豆が利用されていたこと、さらに一部の地域では、発見される豆(種子)の大型化が起こっており、これは野生種から栽培種への転換を示す可能性も指摘されています。つまり、縄文時代はただ狩りをし、木の実を集め、魚や貝を捕っていたのみでなく、植物の栽培もしていたのではないかという、縄文時代のイメージを大きく変える意見も出されています。

 さて、もう一度、前回紹介した栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」を見てみると、撚糸文が内面にも外面にも施文され、地表下-440㎝付近で出土、更に年代測定ではおよそ11000年前と、縄文時代早期初め頃のものとして間違いがなさそうです。圧痕として残されていた豆は長径4.5㎜と、今食卓で見るものと比べるとはるかに小型ですが、顕微鏡によるレプリカの観察からも、ダイズの仲間(ダイズ属)と同定されました。

圧痕レプリカ
前回紹介した土器に残された、圧痕のレプリカ。上の楕円形の部分が、ダイズ属種子と同定されている(写真は中山誠二氏によるレプリカ)。

 つまり、11000年前に栃原に住んだ人が、豆を食べていたかもしれないのです。さらに栃原岩陰遺跡からは、この他にも豆の発見がありました。これらは何を意味しているのでしょうか?果たして本当に、豆を食べていたのでしょうか?
 また長くなってしまったので、今回はここまで。次回こそ、栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」オールスターズで、上の疑問に迫りたいと思います。

 

6月6日の一時休館について

6月6日(土)、役場施設電気工事のため
誠に勝手ながら、10~11時頃までの間、一時的に休館とさせていただきます。
ご迷惑おかけしますが、よろしくお願い申し上げます。

北相木村考古博物館

『栃原岩陰遺跡マガジン』Vol.3 配布を開始します・無料です!

栃原岩陰遺跡マガジン写真

令和元年度北相木村考古博物館報『TOCHIBARA ROCK shelter site MAGAZINE』、
通称『栃原岩陰遺跡マガジン』Vol.3の配布を博物館再開の5月26日より開始します。
内容は、台風災害のため開催できなかったロックフェスの誌上での再現(協力:小松隆史さん、譽田亜紀子さん)から、『栃原岩陰遺跡報告書』の意味とその先に向けての提言、さらに植物考古学の佐々木由香さんへのインタビューや、若き考古学者中島透さんのエッセイ「考古学とスキー」も収録。
ご来館の際は、ぜひお持ち帰りください。

★まだまだ長距離の移動の難しい状態が続きます。PDF版の公開も、例年より早く行う予定です。