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『栃原岩陰遺跡マガジン』Vol.3 配布を開始します・無料です!

栃原岩陰遺跡マガジン写真

令和元年度北相木村考古博物館報『TOCHIBARA ROCK shelter site MAGAZINE』、
通称『栃原岩陰遺跡マガジン』Vol.3の配布を博物館再開の5月26日より開始します。
内容は、台風災害のため開催できなかったロックフェスの誌上での再現(協力:小松隆史さん、譽田亜紀子さん)から、『栃原岩陰遺跡報告書』の意味とその先に向けての提言、さらに植物考古学の佐々木由香さんへのインタビューや、若き考古学者中島透さんのエッセイ「考古学とスキー」も収録。
ご来館の際は、ぜひお持ち帰りください。

★まだまだ長距離の移動の難しい状態が続きます。PDF版の公開も、例年より早く行う予定です。

北相木村考古博物館の再開について

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、2月末より休館しておりましたが、
受付の飛沫防止シートの設置、消毒液の配置、手すり部分の消毒等の措置の上、
5月26日(火)より、通常通り開館致します。
但し、当面の間は、体験用の骨角器や石器は撤去しております。
ご理解いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

北相木村考古博物館

栃原岩陰遺跡のお話その3 ついてる土器とついてた豆(前編)

 ここまで、骨角器、石器を紹介してきましたが、次はやはり土器でしょうか? しかし、栃原岩陰遺跡出土の土器は、量も膨大で、時期にも幅があります。そこで今回は、土器そのものと言うよりも、研究の過程を振り返りつつ、どんなことが分かってきたのか、そんな例を紹介します。

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 写真の土器片は、「栃原岩陰部」のⅡ-1区、ー440㎝から出土したもの。上下の幅7.5㎝とそれほど大きな破片ではありませんが、実はこれが、幸運に恵まれた「ついてる土器」だったのです。

 考古学では、土器の模様や胎土(材料となった素地土)、作り方の技法が重要視されます。それが「土器型式」というまとまりになり、年代や地域を示す指標になるからです。その見方では、この土器は表と裏(考古学用語では外面と内面)に撚糸文(細い棒にごく細い縄を巻き付け、それを転がして付けた模様)が施文された「表裏撚糸文土器」の口縁(土器の口の部分)を含んだ破片で、ここから縄文時代早期の土器と判断出来ます。
 しかし、この様な特徴だけでは細かい時期が不明確で、2010年に(株)加速器研究所に依頼し、放射性炭素年代測定を行いました。この土器の内面には、当時のお焦げ(炭化物)が付着していたことで、この分析が可能となったのです。放射性炭素年代測定についてはまた別の機会にしますが、最近では精度も上がり、細かな実年代(今からおよそ何年前のものか)が、ある程度分かるようになってきています。
 これによると、この土器片は今からおよそ11,000年前(11105 −10745 cal BP 95.4%)のものである可能性が高いとされました。これは縄文時代早期のはじめ頃と言えそうで、その時間的位置付けもはっきりしてきました。この様に、たまたま残っていたお焦げによって年代が割り出せるのは、全体の数パーセントにも満たない、幸運な土器なのです。
 そしてさらに、この土器については興味深い発見が続きます。実は2010年の分析の際にも、外面に楕円形の穴(写真左上の黒い部分)があることが指摘されていたのですが、その後2016年からの明治大学黒輝石研究センターなどによる調査で、それがダイズ属の種子、つまり豆の痕だと判明したのです。
 なぜそのような事が分かったのか、そしてそれはどのような意味を持つのか。同じく栃原岩陰遺跡の「ついてる土器」の例と共に、次回で説明したいと思います。